クラシカルな建築の中には今も脈々として生きている建築精神というものがあります。それはいつまで経っても変わるものでもないし、いつまで経っても古くなるものではないのです。創造という美しい言葉に追いまくられていたずらに異常なもの、珍奇なものに食いつくのを、私は自ら押さえたいと思っているんです。全人間的な立場から、古い建築を偏見なしに見たり学んだりしなければならない、というのが私の考えなんです。
(佐藤武夫 火燈窓 相模書房 1969年)
物資統制下の戦時中に元岩国藩主吉川家が所蔵していた美術品・郷土資料の保存・展示を目的として計画され、1945年3月に竣工し、1950年に博物館として開館した。6本の列柱による古典主義的なファサードが特徴的な外観は、溶鉱炉のくずを原料とした鉱滓ブロック板を貼ったもので仕上げられている。構造は無筋に近いコンクリート(竹筋という説もある)と煉瓦造で、展示室内部は白色の漆喰で仕上げられた柔らかいアーチ状の太い柱で構成されている。
わたくしは旭川で足かけ三年を過ごした。当時中学校の一年生で、酷しい寒さの中を一里ばかり距った上川中学へ通ったわけである。十月の末から翌年の四月ごろまでは、雪の中を歩くのが辛かった。半年ちかく灰色の空と一面の雪におおわれた世界の中で、小さな煉瓦造の建築などを見て通ることは、視覚の中で落とし物を見つけたように嬉しかった。旭川の市庁舎を設計するに当たって、わたくしはこの実感を最初に思いおこした。煉瓦を壁に使おうと心に決めたのである。それもコンクリートと煉瓦を交錯して鮮やかなチェックの模様を、あの灰色の半年の空に聳立させようと考えたのである。
(佐藤武夫 火燈窓 相模書房 1969年)
市民に親しまれる近代的な庁舎として計画された。低層部に市民サービス関係の窓口と市長室・議会関係諸室を集約し、その他の機能を高層化することによりランドマーク的機能を持たせ、足下周りは庭園として開放した。凍害対策としてできるだけ表面凹凸を避け、雪解けによる外壁の汚れを防ぐための水切り、防水層の押さえへの留意など十分な寒冷地対策に加え、エントランスホール下部に日本初の融雪装置を設置している。
塔というものの発生は道しるべなんです。どこにだってその当時の精神支配の建築はみな塔を持っています。狭い意味の合理主義で考えたんじゃ、塔というものは無用の長物と見えてくる。もっと広い、深い精神性からみますと、ああいうものが本能的に欲しいんですね。キリスト教の寺院の塔が町の通りの突き当たりにスッと見えるような、スカイラインのたのしさというようなものが近代の都市には欠けてると思うんです。ですからつとめて都市に植えつけていきたい。
(佐藤武夫 火燈窓 相模書房 1969年)
市政60周年記念事業の一つとして、全国的な諸種の催しへの対応と、文化的コミュニティーの場として計画された。収容力約1,700名を持った大ホールと展示ホールから構成されている。外観の特徴となっている煉瓦張り(ようかん積み)は建物が信越本線に隣接する音響上の不利な条件に対して、遮音上の目的から採用され、正面ファサードの飾り格子は、西陽に直面するホワイエの明るさの抑制のためである。正面の広闊な階段は市民広場を野外集会の場として利用する際の演壇として考慮したものであり、その下部は機械室および、乗り物によるアプローチ通路となっている。
ビルディングは大体どこの都市でもその都市の中心地に建つものですから、その都市の目抜きの位置を形作り、経済の度合いを象徴します。そして更にその一つ一つの建築の良さが都市の文化の程度を物語ることにもなります。吾々の、各都市の市民が誇りとする自分たちの都市を作り上げて行くために、そこに出来る建物についてその良さ悪さについて市民全体が敏感でありたいものです。
(佐藤武夫 薔薇窓 相模書房 1957年)
農協中央諸機関をはじめ農協に関係の深い諸団体の総合事務所であり、国際会議室、ホール、大小の会議室等を有している。三方が道路に面するため、中心部にコアを持つ正方形を二つ並べた平面形を基本とした。3~9階の外壁は遮熱ガラスブロックを用い、透明感のある外観を構成するとともに都市騒音の防止、熱損失の低減を図っている。
この文化会館の設計をお引き受けして、これは単なるそれらの内容の容れものとしての建物であっては足りない、建築自体が福岡県文化の象徴であらねばならない、そう考えました。既に出来ている市民会館と調和をそこなうことなく、むしろ快いコントラストを保ちながら、近い将来公園化される周辺一帯の環境を心に描きながら構想をまとめていったのです。書庫を立体化して高塔にしつらえたり、大きな外壁を遮音上無窓に試みたりしたことは、そうした造形上の意図が絡んでいます。また建築に彫刻や壁画の参加を願ったのも、同じ考えに出発しています。
(佐藤武夫 設計上の根本となった構想 文化会館パンフレット1964年)
1964年に図書館と美術館部門を持つ複合施設として計画され、現在は全面改装を経て1985年より福岡県立美術館として運営されている。高さ50mの塔は収蔵庫(もとは書庫)の機能を持つ。騒音対策のため無窓となった外壁を飾るタイルの装飾パターンは、筑紫結城や博多帯などの土地に馴染みのある織物をデザインモチーフとしており、竣工当時のまま現在も活かされている。
天智天皇の水時計の故事があるところなので、ぜひ時計塔を作って欲しいという要望がありました。それで水時計をデザインのテーマにした塔を建てました。上に行くほど幾何級数的にだんだん節を長くする、竹の節みたいに。そうするとこう空へスーッと伸びていくような勢いが出てくるんですね。建物全体も土地柄を謳うようなものを心がけました。
(佐藤武夫 火燈窓 相模書房 1969年)
前面に琵琶湖をのぞみ、文化・観光・文教諸施設に接している環境の中で、自然を積極的に空間の要素として取入れ、新しい表情と調和をもたらす事を期待した。深い軒、丸柱と通し梁で囲まれた一つの架構の内に、議決機関と執行機関等の機能分化した空間が再統合され、竪の交通シャフトにより連結されている。市民デッキは、市民サービスのための窓口業務、市民相談等の他に物産展示スペース、彫刻等を視覚的に計画し北側市民広場に連結する開放空間を得る配置となっている。そのほかデッキは、人と車とによるアプローチを分離し整理する装置として、内部空間と外部空間との相互浸透の場として効率的に使われている。
市民会館のことで土地の方々からいろいろお話を伺ったわけです。すると具体的な注文と同じくらいのウェートで熊本城の存在ということが大変な意味を持っている。近所に建つ建物だから、何とか調和のとれる、もっと積極的に言えば引き立て役になるものにしていただきたい、というようなご注文も出ました。
公共建築には、やはりその土地の人々、姿にならない姿のビジョンが、願望として潜在しているのです。それをわたしたち建築家は充分汲んで、それに応えてあげなければならない。押しつけるのではなく、聴いてあげる謙虚な気持ちがなくてはいけないと思っています。
(佐藤武夫 火燈窓 相模書房 1969年)
1826席(竣工当時)の十二角形のホール棟と会議室・展示室を持つ会議棟から構成されている。ホール棟は45mの直径を持つRCの大架構となっており、一種の折版構造を発展させたもので独特な外観表現となった。外壁タイルは肥後かすりの模様を表している。舞台改修やバリアフリー工事など、常に利用者の声を聴きながら手を加え、現在も高い利用率を誇っている。
音波が音源から伝播して行く経路を主として観察する方法がある。煙箱法と名付けられたが之は私が工夫したもの。金属鏡で断面模型をこしらえ、音源の代わりに光源を使い、タバコか何かの煙を充たしたガラス箱の中で実験をやる。一寸工夫して後光が射すような光をおいてやると反射の経路がよく判る。煙箱法の実験をやったばかりに、三十歳までタバコを口にしなかった私が、一日に四箱のピースをたしなむ愛煙家になってしまった。
昭和39年5月の震災に全国より寄せられた多額の募金の一部を基金として、市の復興を記念し計画された大小ホール・記念ホール・会議室・美術館・博物館を有する複合文化施設である。敷地は市内でも有数の不安定な砂質土であるため、複雑な機能を正方形の平面をもつ単純な形態に整理し、構造的に重心の安定を図るとともに、復興に対する力強さと記念性を打ち出した。
実はポンペイの壁画からのヒントもあって、その建築の絵に見える柱がまことに細いんだけどおそらく当時の石造ではできない。それを彼らは理想としていたんだな。普通のプロポーションで必要かつ充分な鉄筋コンクリートの柱なんかでやったんじゃつまらない。煉瓦のマッスを強調するために、思い切りコントラスト上細い列柱にしたわけです。そういうフィクションを僕は容認しているし、うまく使いこなすのがデザインだというふうに思うんですよ。
(佐藤武夫 建築画報 1971/06)
明治以来の北海道開拓の歴史と未来をテーマとした展示室を中心とし、その資料の保存及び研究の機能を持つ施設である。単純な正方形の平面を持つ一塊のマッスで構成し、その巨大な壁面による量感を強調することにより、先人達の偉業を想起する記念性を強く打ち出した。同時に、純化されたスカイライン及び煉瓦のもつテクスチャーと色調とが周囲の自然環境に調和するように願った。配置計画は寄りつき道路終点と、高さ100Mに及ぶ百年記念塔を結ぶ一辺を底辺とする正三角形の頂点を記念館の中心と定め、公園施設一体が記念性を打ち出すことを意図した。
ビルディングで代表される建築技術の昨今の傾向といいますか、主として狙っているところは、ビルディングの用途、その目的とする処に対して出来るだけ機能的な、明るく心地よく事務を執り得るような環境を出来るだけ経済的に早く造り上げるということであります。建築の価値というものが、昔の多くの名建築がその外観の優れた造形性や、内部の見事な美術性といった外面的なことがらに在ったのに対して、近頃のそれは建物の持つ内面的な目的、使命、と言った方向に向いてきたのであります。社会がそれを要求もし、建築家もそういう自覚に変わってきたのであります。都市での建築の美しさは同一様式で統一するのでなく、時代の移り変わりに従って流転する生きている調和が大事なのです。
(佐藤武夫 薔薇窓 相模書房 1957年)
創立25周年を記念し顧客サービスの向上に配慮して計画された新本店である。平面形を八角形とすることにより敷地境界線と建物形状を馴染ませ、外壁の大半を耐力壁に扱い、厚い壁にうがたれた小窓を連続させることにより、堅実な企業イメージを表現した。
近代の建築の傾向が、段々科学的になっていく事は大いに我が意を得て結構なことであり、また当然然るべきことがらであるが、いくら科学的になっても科学そのものでない限り、そこには必ず作者――言葉が悪ければ――構成者のtemperament(気質)が顕現してくる筈である。それからまたいかに科学的になっても、そこにはまたそれに相応しい詩が謳われる境地がひらけているということである。新しい素材と、新しい形式とによって、新しい詩を謳おうというromanticismの泉は、永劫に建築の道から枯渇しないだろう。
(佐藤武夫 住宅鴟喃荘 共洋社 1933/12)
「鴟喃荘」という名前の由来は、パリ郊外の名建築Chateau de Chenonceauからもじったもので、クライアントのご夫妻が永くパリに滞在されていた思い出としてつけられた。昭和8年竣工であるが、当時としては珍しいインターナショナルスタイルのモダンなつくりの邸宅である。シンプルな中にも巧みな光や素材の扱いがしゃれた雰囲気を醸し出している。