Pres. HOSODA MESSAGE

代表取締役社長

ポピュリズムと現代(建築)の相克
物言わぬ社会にどう向き合うのか

新年を迎え、世界がますます混とんとしつつあるようだ。EU(欧州連合)各国での反体制化、反既成政治の流れが加速している様子が改めて顕著になったからである。例えば、昨年暮れのイタリアでは、国民投票で上院の権限を縮小する憲法改正案が否決され、レンツィ首相が辞任した。他の各国でもEU統合に対する批判勢力が台頭しつつあり、これから選挙を控えているオランダやドイツ、フランスの動向も微妙な雲行きになることは間違いない。エスタブリッシュを批判する声はますます大きくなるだろう。

そして、この20日に就任が予定されている米国次期大統領ドナルド・トランプ氏である。公職経験のない初の米国大統領に対し、米国自身を含めた各国の思惑や周辺国への影響など、不安と期待が入り混じる。トランプ氏は、物言えぬ白人労働者や移民労働者たちのみならず、エリートと呼ばれる高学歴層の支持をも受けた。現在、一部では現実路線に舵を切りつつあるが、いまだ世界各国はトランプ氏の発言や動向に一喜一憂している。

声なき大衆の声 国、動かす

世界はトランプ氏に何を見ようとしているのか。なぜこれほどに世界が動揺しているのだろうか。こうした現象はEU離脱を敢行した英国の状況と酷似した現象でもある。EU加盟国としての責務を果たすためにEU諸国に市場ばかりか国境さえも開放したために移民労働者が急増し、既存の労働環境を圧迫し始めた状況に、それこそ物言えぬ英国の労働者が挙げた声がEUの離脱だったのである。

こうした現象は必ずしも欧米だけに限られたものではない。フィリピンや韓国、そして日本でも大衆の声のどよめきが国(都市)を動かすという事態は、もはや世界的な現象といえる。また、最近のロシアの動向も世界の複雑化を加速させる一方である。

その最大の原因は、グローバル社会の進展であろう。フランスの経済学者トマ・ピケティが指摘したとおり、格差社会の現実は、もはや避けがたいほどに貧富の格差を肥大化させている。政治や制度がこの格差を改善させてくれるという見通しを一向に持てないままに今日があるという状況に、マイノリティではなく、声なき声のサイレント・マジョリティが選挙という匿名の制度を通して表舞台に立ったのである。とすれば、これこそが大衆社会の声なのであろうか。

グローバル化が大衆社会を拡大

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』(1929年)で指摘した大衆社会のあり方が思い出される。産業革命後、社会はエリートの支配から脱して近代市民社会が生み出され、大衆社会が出来上がってきたのであるが、オルテガの慧眼は、大衆というものの本質は、むしろ、大衆とかエリートという階級の違いにあるのではなく、個人のパーソナリティーの違いによって生み出される「生の理性」の相違にあるとした点である。

「生の理性」とは、個人の生を高めていくような理性のあり方である。自己の欲求や権利のみに走り、社会に対する義務や振る舞いを欠いた人間を大衆と位置付け、一方のエリートたちについても狭あいな専門家として現代の野蛮的人種として、どちらもそれぞれに差異を持ちながら社会に存在すると批判し、20世紀という時代の到来を示したのである。

そうした大衆の力に媚びて、あるいは、それを利用して権力を行使する姿勢が大衆迎合(ポピュリズム)であろう。しかしながら、21世紀のグローバル社会は20世紀型の大衆社会という構造を大きく変えてしまったことに注目する必要がある。経済格差が生み出す貧困層の拡大化が進む以上に、大衆社会という構造の拡大化が進んでいる。すなわち、グローバル化の進んだネットワーク社会が大衆をつなぐ、サイレント・マジョリティの台頭した社会が出現したのである。

大衆迎合はサイレント・マジョリティにより変質した多数派社会を意味するようになった。それほどにグローバル化やITの進展が世界の構造を変えてしまったのだ。批判的に言われた大衆迎合それ自体の意味や状況が大きく変化しているのである。もはや、ポピュリズムという言葉の意義は、むしろ多くの市民の声の反映として歓迎すべき存在であるように見られているのではないだろうか。異常な事態であるが、それが現在なのであろう。

客観的真実より感情に訴え世論

オルテガのいう「生の理性」から逸脱し、専門家も知識人も労働者もが新たなグローバル社会に飲み込まれつつある状況であり、エリートですら、立場がいつ失われるかわからない、恒常的な危機的状況に置かれ始めたのである。それは英国のオックスフォード辞書がことしの言葉として選んだ「ポスト真実(post-truth)」という言葉にも表されている。客観的真実よりも感情的訴えかけのほうが世論形成の武器になるという言葉だ。

さて、そうした現代社会は都市や建築に何を問いかけているのだろうか。極めて少数のエリートたちによる支配的権力の行使は、うまくいかない状況が日常化している。エリートたちも大衆の前に沈黙して、発言者や権力者にもなれないサイレントの階層に組み込まれ始めたのである。その結果、誰もが社会の展望や未来に関心を持たないまま、さらには持つことができぬまま、社会に対する信頼が不在の社会を生み出すことになったのである。物言わぬ社会の出現である。誰にも決められない社会、誰も責任を取らない社会が、現在起こっている現象と言えるのではないだろうか。

意志の存在ない異常な現代社会

トランプ現象は、ポピュリズムと言われているが、本質はそうではない。トランプ氏でもクリントン氏でも、どちらに転んでも期待を持つことはできないという「選べない」選挙の結果でしかない。サイレント・マジョリティたる有権者たちは責任を取ることを考えないのだ。さらに言えば、豊洲市場問題も国立競技場問題も全ては同根である。

関係者や当事者が不安やリスクを抱えていても国民の多くにとってはどうでもよく、関心は、それこそ、ポピュリズムに応えるコストやプロセスの不透明さにだけ向く。ただ踊らされているだけだ。都市や建築を生み出す必然の流れに意志の存在がない―真実の不在―ということ自体が現代社会の異常さを示している。誰も何も言えないのではない、誰も何も言わぬ社会の出現なのである。

都市や建築の評価はどこにもない。そんな社会に誰が住むというのか。問いかける矛先すらも定まらない。いまや、社会に向き合い社会の要請に応えるという建築の本質的、本来的なテーゼは不毛となってしまったのか。

日刊建設通信新聞
 2017年1月10日掲載