Chairman. HOSODA MESSAGE

弊社代表取締役会長・細田雅春の取材記事や発表した文章などを随時掲載しております。

代表取締役社長

建築と政治的思考
グローバル社会の中で再び問われる国民国家

新型コロナウイルスの問題を契機にさまざまな問題が炙り出されたように思う。

危機に直面すると、人間個人ばかりか、組織、あるいは国家でさえも本性が露わになる。利自に傾き、利他に関心が向かなくなる。ここでそれを詳細に取り上げることはしないが、新型コロナ問題で炙り出された利己主義は、グローバル社会の基盤を危うくしたばかりではなく、個人や組織相互の信頼を喪失させたように見える。やがては自らの立ち位置とする場所すらも失うことになるだろう。

病的ともいえるナショナリズムをどう中和するかが、各国の政治体制に問われなければならない。すなわち、国家と国民の関係に関わる政治力の問題である。まさに、いま、グローバル社会の中での国民国家という概念が再び問われているのである。

さて、新型コロナ問題は、世界共通の課題であるわけだが、各国の対応はさまざまであった。日本の感染者数は世界的に少なく「日本モデル」を称賛する声もあったが、緊急事態宣言の終了後の現在も感染が拡大しつつあり、収束しているとは言えない状況である。こうして見れば、国の対策が満足いくものだったかは疑わしい。行動規制と経済的保障は、まさにその国の「政治的」知見・力量を如実に表すものである。

日本の医療整備はもっぱら地域医療を前提に作られている。そのため、世界的な感染症への対策は諸外国に比べても脆弱であることはつとに指摘されている通りである。

さて、新型コロナの問題を含め、世界各国の感染症対策は、医学的問題にとどまらず、政治的判断に基づく状況にもあることは明白である。米国がWHO(世界保健機構)からの離脱を表明するに至ったのも、米中の政治的覇権争いである。無論、感染症対策以外の分野でも同様だ。米国による中国・ファーウェイへの制裁強化もグローバル・サプライチェーンのネットワークからの中国の切り離し(デカップリング)を画策しているのである。

皮肉にも、その米国が現在では新型コロナの世界最大の感染国である。その原因は世界最大の規模を誇る疾病予防管理センター(CDC)の機能削減であるとも言われている。まさに政治によるかじ取りが感染症の拡大を引き起こしたのだと言えよう。

課題対応の欠如は大きな禍根を残す

一方、EU(欧州連合)諸国はどうだろうか。例えばフランス国内で、新型コロナを含めて3月、4月の死亡率が最も高かったのはパリに隣接する移民や貧困層の多いセーヌサンドニ県であるという。また、医療体制も周辺地域に比べて脆弱であることが指摘されている。これらはまさに格差問題、すなわち、政治的な脆弱さに起因する不平等が、大きな影響を与えているということだ。こうした事例は、政治的配慮が欠落した地域に多くの問題が露呈するということを表している。

わたしは5月13日付の本紙で、1933年のアテネ憲章で示された都市のゾーニングの問題を示した。特に機械的に規格化された都市のあり方に対し、今こそ人間の側に立った都市のビジョンに基づく「現代版アテネ憲章」を提案すべきであると述べたが、機械的な合理性に基づいた近代的社会・工業化社会が世界に浸透して、今日の都市が出来上がっているのも事実である。日本の都市計画法や建築基準法も同様である。しかしながら、機械的な線引きやゾーニングという方式は、今日では適用しにくくなっているというのが実態ではないか。

すなわち、制度的思考が今日的な課題に対応できるように更新されていないということグローバル社会の中で再び問われる国民国家だ。68年の都市計画法の制定後、海外などの事例を踏まえ、70年の建築基準法の改定ではゾーニングなどの仕組みを組み替えようとした動きがあったと聞いているが、結局実現はしなかったようだ。そこでも政治の決断がどこまでできたのかが問われるところでもある。

もちろん、法律とは、社会現象の検証を十分に経たのちに体系化を図りながら定めていく性質を持つものであるがゆえに、現象の実態に即応することは容易ではないが、政治とは、社会の未来を描くことに責務を負っているのである。デジタル化が進行している今日のグローバル社会においては、速やかな政治的決断が求められる局面が発生することが多い。

例えば、先日国会で成立した「スーパーシティ法案」はどうだろうか。その土台となるのはコンパクトシティーであり、概念としてのスマートシティーである。やや技術的側面に偏っているきらいもあるが、この「スーパーシティ」も、デジタル技術なくしては成立しないものである。デジタル技術がさまざまな境界を越えて成り立つように、現在の都市や建築を取り巻く環境も、既存の枠組み・規制を乗り越えていく必要に迫られている。つまりは情報共有のあり方が変わるということなのだ。そのときの政治としての決断が、責任の回避や先送りといったいわば怠慢によって避けられれば、それがのちに大きな禍根となる場合があるからだ。

問われる 政治的決断

ただし、政治的決断というものは常に大きな危険性を孕んでいることにも注意しておく必要がある。とりわけ、公共建築についても同様である。それはかつてのファシズム時代の政治と建築のかかわりを見れば明らかであろう。「決断」はときに暴走し、暴力にもなりかねないからである。

だが、グローバル社会の複雑さにどのように対応するかは、結局は政治力の問題に帰着するはずだ。その政治の決断は何に基づくべきものなのだろうか。民主主義国家においては、それは国民の意思であろう。では、その国民の意思とは、どこからくるものだろうか。現在の多数決や投票などから一歩進み、熟議の民主主義を進める必要がありそうだ。もちろん、熟議を経たからと言ってすべての民意が集約されることはない。だからこそ、政治はその困難な調停を果たす必要がある。それでも、民意と政治は等価ではない以上、政治は民意をどこまでサポートできるのか、両者の間に課題は常に残されている。それをいかにして止揚するかが問われるだろう。

建築の中和作用に 期待

そのとき、あるいはその過程で建築が果たす役割は何か。建築が社会と人間の関係を図解し、空間化(形態化)する力を得て、新たに社会や都市へ向かうさまざまな課題に対し「中和作用」を果たすことが期待されていると考える。

日刊建設通信新聞
 2020年7月22日掲載